自分が大学院を出る春。彼女はなんとか小康状態を保っていた。
就職の難しかった時節、関西の希望は通らなかったが、名古屋の
某飛ばす物を作る系の会社に入った。
学生結婚、という手段も講じたが、実家の祖父に大反対された。
だが社会人という肩書きが着いた今、それを阻む事がなくなった。
というか、祖父そのものが他界した。86歳だった。
Y子も、名古屋での就職を喜んでくれた。
病状も以前の進行より遅くなっており、大学院時代よりは
幾分ましにはなっていた。だが酸素吸入器は手放せず、
病院内を車いすを押して回るときなども、簡易の酸素ボンベは
手放せない状態だったが。。。
最初の夏のボーナス、寸志という事ではあったが、4月からの給料と
逢わせて、婚約指輪を買った。
04年の夏の事だったからまだよく覚えている。大変暑い夏だった。
自分はスーツに身を包み、小さな小箱を大切に抱えて彼女の過ごす
病院へと向かった。
自分の姿を見たY子は、目を見開いて驚いた様子だったが、すぐに
コロコロと笑った。
自分は手にしていた小箱を差し出した。「今の精一杯だけど、」と
情けない断りを告げてだが。。。
中に収まっていたリングを見て、Y子はぽろぽろと涙をこぼした。
付き添っていたY子の母親も泣いていた。俺も泣いた。
大反対していた祖父が他界し、3回忌の取りまとめも終え、一息ついた秋。
唯一擁護にまわってくれていた祖母が親戚を交えて会談し、結婚に
賛成してくれた。
母は最初から賛成だった。父を早くに亡くしたからだろうか?
ちなみに自分に父親の記憶はない。
結納などの儀式は行わなかった。ただ彼女の病室で、本当の近しい人達
数名を集め、婚姻届に署名し、(うちは神道だが)キリスト式の簡単な
式を挙げた。
今思えば、もう少し賑やかにやってもよかったのかなと思うが、
そこは病院だから仕方なかった、と自制。
が、結局病室での挙式とあって、同フロアの動ける患者さんやその家族の
方々が顔を出してくれたりと、ちょっと蜂の巣をつついた様相に
なってしまった。
外野からの質問は一切答えずにこうやって
淡々と書くものなの?
>>167
んなこたない
この手のスレは初めてだから、お作法がよくわからないのですまない。
ココでブレイクタイム!!!
金の心配とかはなかった?
名古屋っていうとトヨタあたりかな・・
>>147
奨学金一種が相当に助かった。。。
>>163
お察し下さい
婚姻届は2人で出しに行くことは難しいので、一人で行った。
この間、ちゃんと仕事もしていた。
ただ、Y子を名古屋へ転院させるよりも、親御さんの膝元の大阪に
置いておくのが賢明と判断し、ほぼ単身赴任状態。
本来なら独身寮をあてがわれるところだったが、妻帯者は
独身寮に入れない、という事で、単身ながら社宅へ入居した。
最初は妻の姿が見えないということで奇異の目で見られたが、
早くに結婚している同期も多く、同じ社宅内ということで、
事情は早くに知って貰うことが出来た。
>>172
唯一擁護に回っていたのがばあちゃんで
かあちゃんは最初から賛成って
ヘン
仕事は苛烈だった。なんとか2年目を迎え、本格始動し、さらに苛烈になった。
日が変わる頃に帰宅し、また朝出て行くという生活。
だが、大阪へ行けばY子に逢えると思うと、さほど苦ではなかった。
>>179
カーチャンは一度嫁に出て戻ってきてた身で、バーチャンほど発言力が
なかったのよ。。。
6月、新規事業の初度設計を担当し、客先での設計審査対応、社内調整、
ベンダ調整、etcで振り回される日々が続いた。
6/14、4時頃だったと思う。仕事がべらぼうな状態の時間帯。
自分宛に外線が回ってきた。 「親御さんからですよ」
嫌な予感がした。 そして予感は現実のものであった。
独り言なので書き進めていく。
----
電話越しはY子のお母さんだった。
「午前中に血圧が下がって、いまさらに下がって危ない状態」
だと教えてくれた。
自分の現在の事情を一番よく知っていて、よく可愛がってくれていた
プロマネは、「後はいいから、すぐ大阪いけ」と言ってくれた。
同僚・先輩も、「フォローはまかせろ、すぐにいけ」の一点張り。
申し訳ない気持ちと、焦る気持ちで会社を飛び出した。
車通勤だったので、すぐ東名に乗って大阪まで駆け付けた。
今思えば新幹線の方が早かったのかもしれない。動転してた。
人生の岐路だっけか?
>>187
四十九日でもないよね
なんだろ
再婚でもないとか言ってるし
>>187
まぁもうちょっと待って
>>188
結果から言え・書けって言われて教育された
>>189
四十九日でも再婚でもないよ
結局、間に合わなかった。
家族が見守る中、看護婦さんが機械の整理や、エンゼルケアをして
くれているところだった。
葬儀は淡々と進んだ。
親族の田舎の爺さん婆さんのお通夜、葬儀とは違った。
よく「お通夜みたいな顔しないの」と冗談を言う地元の人がいたが、
これが本当のお通夜なんだなあと、ぽっかり穴の空いた頭で思った。
火葬炉に見送る前、最後に棺を開けて読経をし、焼香をあげるのだが、
職員さん?が「指輪をされていますが、焼くと傷みますが…」と
教えてくれたが、敢えて一緒に焼いて貰った。
火葬は60分と言われたが、45分ほどで終わった。
収骨室に案内され、親族代表で最初に焼骨(のどぼとけ)を拾うとき、
左手の部分に焼けた指輪がちゃんと残っているのに気付いた。
こっちの風習では喉仏だけ、骨壺と別の小さい入れ物にいれるんだが、
それも一緒に納めた。
あとは淡々と、親族友人が骨をあげていく。
トロイ・要領が悪いと言われたことある?
むしろ簡潔すぎると言われる。
思い出しながら書いてるので徒然です。すいません。
骨上げが終わって中陰の会食となり、その席でY子のお母さんが一通の
封筒を手渡してくれました。
Y子からの最後の手紙でした。
まだ余力のある内に書いたのでしょうが、だいぶ文字が乱れています。
かいつまむと、
・私をこんなに愛してくれてありがとう。
・私の心を打った言葉に、戦時中に亡くなった方の遺書の一文があります。
・「徒に小義に拘るなかれ あなたは過去に生きるのではない」
・「勇気をもって新活面を見出すこと」
・最後までわがままな私を許してください。
・Sは飛行機が好きでずっと勉強して今の会社に入ったよね
・それが、Sの大儀だと思っています。
:
:
Y子は、俺が追いかけた夢を大儀だと言ってくれた。
それから6年。
自分は、30になった。
と同時に身体を壊し大病を患い、今の仕事を続けられなくなった。
彼女が「大儀」と言ってくれた仕事を離れ、生まれ育った故郷へ帰る。
彼女が願った「大儀」を果たせないまま、名古屋の地を離れる。
周りは「人生の岐路」だと言ってくれる。
だけれども、自分はそれが無念で無念で、無念でならないんです。>>214
そして漸く、生まれ故郷の家に腰を据え、この地で働き、骨を埋める。
その覚悟と決心が、やっとできました。
退職に当たっては、当時のプロマネ達が声を掛け、壮行会を開いてくれました。
同期達も、また然り。
「もっと一緒に仕事がしたかったよ」
真っ先に大阪へ行けと行ってくれたプロマネの言葉に、少し救われて。
「たまには名古屋へ遊びに来いよ。呑みにこい」
同期の心遣いにも手を合わせ。
そして今、かつて最後に背中を押してくれた祖母も母も他界したこの実家で。
新活面を見出すために。
死神かよ
>>222
うちも心臓がアレの家系らしく。ポックリ。
>>223
すいません。続きはありません。
彼女が出来た
亡くなった
それをVIPの皆様に伝えたかった